歴史と略歴

明治十一年創業(有)松仙べッ甲製作所

■日本の玉型の原型を作成■

  メガネフレームはその昔、寸五や五零番と玉型寸法を表現していた。しかしそのレンズ径は職人によってまちまちだった。 東京眼鏡製造販売同業組合は規格作りの為専門委員会を設置、当時築地明石町のエースクラウン商会から玉型を取り寄せ、玉型の原形作りを松本仙太郎商店の創業者松本仙太郎に指示そして全国統一の規格が出来上がった。その事柄は現存する原形に名が刻印されていることで判り、又東京眼鏡レンズ史に記されている。 

   松本仙太郎商店は明治十一年、東京都本所區林町(現在の墨田区立川)の地で創業。眼鏡全般、双眼鏡、べっ甲枠、潜水眼鏡、レンズ等の製造、卸、小売りと幅広い事業を展開していた。 創業当初は赤銅を初めてフレームに応用したことで知られ、その斬新なデザインで、その後の赤銅製フレームへの火付け役となる。 事業に対する努力は小売面でも発揮され、東京で初めて眼科医を常駐させた販売を展開する。今でも当時使用された検眼の道具が残されている。

■第二次創業■

  昭和二十年の東京大空襲で本社を焼失、現在の所在地千葉県市川市へ移し再出発をする。 その頃は松本茂が二代目を継いでいた。再出発を期にセル枠製造に重点を置いた。当時セル枠製造は量産時代に入っていたが、私どもは生地を一枚一枚糸鋸で引く一枚物の別作品に特化した。その為外人や芸能人のメガネを数多く手掛け、中でもレイチャールズが来日した時同じデザインで六枚も注文され製作した。 

  現社長三代目松本巖はすぐ家業を継いだ訳でなく、メガネ製造の技術を修得する為、メガネ生産地の福井へ修行に入った。特に大量生産にかげりが出ていて、すでに大手では生産調整に入っている現場を目の当たりにする。 福井の現状から、首都圏でのセル枠製造は断念するしかなかった。そして製造分野の一つであったべっ甲枠製造に望みを託し、再度べっ甲の修行に入った。

■第三次創業■

  昭和51年頃からべっ甲枠製造に本格的に入り昭和58年、有限会社松仙べッ甲製作所を改組すると同時に代表になり、第三次創業を迎えることになった。巌は三代目を継ぐことは自らが望んでいたことだった。子供心に父親が有名人のメガネを作っているなんて本当にかっこいいと思っていたので、父と同じ仕事をしたいと考え、厳しい職人の世界へ自ら新しい職人を目指して家業を継いだのです。

   べっ甲眼鏡枠の一部分に象嵌や螺鈿の技法を用いてべっ甲の色の組合せで模様を施している。現在はべっ甲の色にない彩色を染色する事でいままでにないデザインで作品の巾を広げています。たとえばイニシャルを模様として入れる技法等、此れ等恐らく私しか出来ない。 この様な他にはない技術、技法で創作する心構えで全ての製品製造に取り組んでいる。その作には『仙翠』の號を印し、細工を施した創作べっ甲フレームには優れた技術の証しである工芸品鑑別書をつけている。


■第四次創業の芽生え■

  伝統工業を守りつつ、当社独自の製作技術を残し、後世のその技術を引き継ぐ必要がある。そこで四代目になるべくして、業界最年少である松本仙太郎が修業の道に進んだことで、当社独自の技術が後世に残り、かつ更なる現代技術と伝統技術の融合への発展の筋道ができた。


私の信条は“遊びの心”


創作作品には常にと考え御使用される皆様に心のゆとりを届けられればと願っております。

1945年千葉県に生まれる
1965年松本茂に師事する
1976年松仙べッ甲製作所を設立
1977年べっ甲象眼螺鈿技法を考案
1983年有限会社松仙べッ甲製作所改組 代表取締役就任
1988年東日本べっ甲事業共同組合  功労賞受賞
1990年東京都知事より賞状  拝受
1995年東京都優秀技能者知事賞 受賞
(社)第一回べっ甲工芸技能コンクール優秀賞 受賞
1996年(社)第二回べっ甲工芸技能コンクール奨励賞 受賞
1997年(社)第三回べっ甲工芸技能コンクール入選
東京都知事感謝状 拝受
1998年JJA ジュエリーコンテストで中小企業庁長官賞 受賞
1999年東京都中小企業団体中央会 会長表彰
2001年東京都伝統工芸士 認定
2003年経済産業省関東経済産業局長表彰 拝受
2006年東京都知事感謝状 拝受
全国伝統的工芸品公募展入選
2007年
全国伝統的工芸品公募展入選
2008年
東日本べっ甲事業協同組合 理事長 就任
東京都功労者 東京都知事表彰
全国伝統的工芸品公募展入選
2009年
産業振興功労者 東京都知事表彰
全国伝統的工芸品公募展入選

2011年
社団法人日本べっ甲協会 会長就任
2013年黄綬褒章 拝受
2014年メガネの国際総合展 機能・技術部門受賞
2016年眼鏡製造 実用新案取得
特殊切手伝統的工芸品シリーズ第五集 作品選定